「中国の詩人――その詩と生涯」(集英社)の第三巻は、東晋から南朝の宋にかけて生きた謝霊運(しゃ・れいうん)を取り上げている。
二十歳ほど先輩に陶淵明がおり、生きた時代は大きく重なっている。
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個人的なことを言えば、この詩人の名は、南朝梁の昭明太子によって編纂された「文選(もんぜん)」に数多く収録されていることをあって知ってはいたが、正直なところ、その作品で特に強い印象を覚えたものは記憶にない。
その生涯に関してもまったく無知だったので、今般、期待をもって本書を繙いたのだが……
目次に掲げられた「謝霊運文学へのあぷろうち」という項目を目にした瞬間、これは徒に望みを持たない方が良いかもしれないと思った。
ここで眉を顰めたのは、もちろん取り上げられたテーマではなく、著者の姿勢に対してであり、またこれだけをもって記述内容に疑念を抱いたりはしなかったのだけれど、本文を読む進めていくにつれ、遺憾ながら第一印象の正しさを確認することとなってしまった。
その原因理由はいくつかあるのだが、同書の著者に何ら恨みを持っているわけでもないのでいちいちあげつらうことは控えたい。
ただ、一つだけ、次のような表現が散見される点だけは挙げておきたいと思う。
……彼の豊かな情はあらゆるものに心に感動を与え、詩情を萌えさせた……
このような表現をそのまま通してしまうとは、編集者や校正者は一体何をなさっているのだろうか。
一方、同書の主人公たる謝霊運の方はというと、「山水詩の始祖」と呼ばれることからして、個人的に共鳴できる御仁に違いない――と考えていたのに、実際の御姿は「名門貴族に生まれた傲慢不遜な人物で、その家名と文名、そしてもちろん金に物を言わせて好き放題なことを重ね、挙句の果ては刑死してその屍を市中に晒された」というのである。
副題として「その詩と生涯」を掲げる「中国の詩人」シリーズとしては、取り上げるべき詩人を誤ったと思わざるを得ない。
実際、詩に照らしてその人生に対する姿勢を紹介する条では、オブラートに包んだような同じような記述に幾度となく遭遇して少なからず食傷させられたが、ご本尊が上のような人物となると、あまり赤裸々かつ詳細に描写することは詩の有難味を減じることに繋がるわけで、著者としても致し方なかったのだろう。
そして、浅学を棚に上げて白状すれば、個人的に、仮にこの詩人の生涯を問わないにしても、その詩を改めて読んで良さを感じることはなかった。
冒頭に述べたことは、この自然な帰結だったのだ。
第四巻に期待することにしよう。