蓼科高原日記

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僧正殺人事件 S.S.ヴァン・ダイン(著)

僧正殺人事件」は、アメリカの推理小説作家S.S.ヴァン・ダイン(本名ウィラード・ハンティントン・ライト=Willard Huntington Wright)が1929年に発表した、ファイロ・ヴァンス・シリーズの第四作である。

 

20220606-僧正殺人事件

 

原題は「The Bishop Murder Case」で、前三作同様、[6文字]の殺人事件となっている。

 

蛇足かもしれないが、それら三つのタイトルを先ず以下に挙げておこう。

 

The Benson Murder Case(1926年)
The Canary Murder Case(1927年)
The Greene Murder Case(1928年)

 


さて、この「僧正殺人事件」に登場する被害者および被疑者は、ほとんどが明晰な頭脳を持った学者と設定されているが、著者は数学と物理学とを相当な程度に混同してしまっている印象を禁じ得ない。

 

さらにその物理学にしても、相対論・宇宙論という巨視的な話題が展開されたかと思うと、一転して量子的尺度での事象が論じられるといった具合で、同書の世に出たのが、ちょうど相対性理論が広く知れ渡るとともに量子力学が次第に注目され始めた時期ということを鑑みるに、これらに関する当時の一般向け啓蒙書から素材を引っ張ってきたのではないかと怪しんでしまう。

 

一部、たとえばリーマン-クリストッフェルのテンソルといった専門的概念も登場するものの、死体の下で発見された紙片に記されたその「公式」――画像として挿入されている――を見ると、テンソルにおいては添字を上に付すか下に付けるかに慎重を要するにもかかわらず、単に"gik"などと、テンソルを表すシンボルと添字との区別さえも成されておらず、しかもこの公式について疑問符なしには読めないような叙述が重ねられては、上の疑念が弥増しに強まるほかない。

 

はじめ、この添字の不都合は日本語版固有の問題かとも思い、念のためネット上で原書に挿入された画像を探して確認したが、同じだった。

 

いや、ここにはもしかしたら、理解してもいない学術用語を徒にありがたがる一般大衆を暗に揶揄する意図が籠められているのではないか――それに、難点を指摘された場合にも、「あれは虚構に過ぎない」という逃げ口上となるに違いない――などとの勘繰りも浮かんでくる。

 

 

 

 


ヴァン・ダイン作品、少なくともファイロ・ヴァンス・シリーズの大きな特徴は、主人公に仮託してヴァン・ダインが自らの衒学趣味を盛んに披露する点であり、これが鼻について好きになれないという向きも少なくないようだが、個人的には決して嫌いではない。

 

しかしながら、それはあくまで、披瀝される学識や見解が正当なものであることが前提で、これを満たさない、単なる「難しい言葉」の氾濫となると、到底肯んじられることではない。

 


ともあれ、同作においてこの種の用語や話題を援用したのは、犯人が優れた頭脳を持ち、社会的・通俗的なものとは隔絶した問題を絶えず思考した結果として、一般的な倫理を無視し死までも軽視する存在であることを強調する必要からであるのは確かであろう。

 

と、こう書けば、同書のストーリー、そこで起こる殺人事件の性質も自ずから想像されると思うが、マザー・グースに歌われるエピソードに倣って、動機の定かでない犯罪が繰り返される。

 

そしその全体的構成は見事で、上にさんざん批判的なことを書きはしたものの、推理小説としての同作の完成度が極めて高いことに異を唱えるつもりはない。

 


当方の書棚には、この「僧正殺人事件」、既に読んだ「グリーン家殺人事件」の他、世評のまずまず高い「カブト虫殺人事件(The Scarab Murder Case)」と「ケンネル殺人事件(The Kennel Murder Case)」の両作、さらに「一人の作家が書くことのできる優れた推理小説は六作が限度」との自分の言を自ら裏付けることになった(らしい)「グレイシー・アレン殺人事件」「ウインター殺人事件」が並んでおり、これらを読むのも愉しみだ。

 

ただ、ファイロ・ヴァンス=ヴァン・ダインの衒学に対しては、これまで以上に眉に唾をつけて臨むことになるだろう。