蓼科高原日記

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「雨の木」を聴く女たち 大江健三郎(著)

『「雨の木」を聴く女たち』(大江健三郎、著)は、1980(昭和55)年から1982(昭和57)年にかけて、文學界および新潮に発表された次の五作からなる連作短編集である。

 

・頭のいい「雨の木」
・「雨の木」を聴く女たち
・「雨の木」の首吊り男
・さかさまに立つ「雨の木」
・泳ぐ男――水の中の「雨の木」

 

20220812-雨の木を聴く女たち

 

ただ、最後の一編については、その冒頭で作者自身が、「……独立したものとしてまとまりよくするために、僕は『泳ぐ男』というタイトルを新しく冠して、直接「雨の木(レイン・ツリー)」に関わる細部はとりのぞくことにもした」と記述している通り、他の四つの相互間に見られるような連繋は表面には現れていない。

 

 

 

 


さて、これらの作品については、本書の帯に、これもまた作者の言葉として、「文体について、また性と暴力のとらえ方について、ひとつの分岐点を自覚する」とあるが、一読しての感想としては、この作家従来の特質に満ちていて特に変化はない印象である。

 

これだけでもう、いくつかの作品を読んだことのある方には凡そのイメージは掴めるだろうが、それらを敢えて挙げれば、あのギスギスした感じの文体により、障害を持った子の親となったエピソード、および反核の姿勢態度が示され、そして現代文学の巨匠としての必要条件、これなしに済ますわけにはいかない「性と暴力」が描写されるのである。

 

個人的には、この最後の特質が支配的だった初期の作品に、やがて第一の出来事が作者の身に起こって作品の大きな部分を占めることとなり、それに引き続いて第二の要素が加わって、以後互いに絡み合って引き離せなくなってしまったような印象を禁じ得ないのだが、それがこの『「雨の木」を聴く女たち』にも及んでいるように思う。

 


もっとも、「頭のいい……」から「さかさまに立つ……」までの四編については、確かに上の諸特徴が幾分和らいでいるようでもある。

 

しかし、恰も、これらだけでは「性と暴力」のオーソリティとしての力量を十分に示せていない――とでも言うように「泳ぐ男」を加えた感があり、上の作者自身の言葉とは裏腹に、そもそも「雨の木」とは直接関係のない作品を、「性と暴力」の味付けを濃くすべく抱き合わせたのではないか、との勘繰りさえ自ずと頭に浮かんで来る。

 


今般もそうだったが、いつもこの作者の小説を読み始めると、すぐ、早く読了してしまおうとの気持ちが生じ、これに追われることとなる。

 

とは言っても、物語がどう展開し、どのようなエピローグが待っているのか、それを知りたいという興味からではなく、「こんな話はさッさと読み終えてしまいたい」との、謂わば負の気持ちに突き動かされてのことだ。

 

しかし、それでいて、途中で本を閉じようと思うことはないし、一冊を終えてしばらく間を置いた後には、今度は何を繙こうか――と考えてしまうのである。

 

不思議なことだが、ここにこの作家の何かが潜んでいると言えなくもないような気もしないでもない。