蓼科高原日記

音楽・本・映画・釣り竿・オーディオ/デジタル機器、そしてもちろん自然に囲まれた、ささやかな山暮らしの日常

ポストマン デイヴィッド・ブリン(著)

近未来、核兵器生物兵器の使用された世界大戦により、アメリカ合衆国という統一国家は瓦解し、人々は各地に孤立的なコミュニティを形成してサバイバリストという無法者の集団に対峙していた。

 

そんな荒廃した世界に生き、旅をしながら折に触れてそれらコミュニティへ足を踏み入れ、即興的な芝居を演じて人々に興を与え、代わりに食物などを得る暮らしを送っていたゴードン・クランツは、ある時、山の中に打ち捨てられたかつての郵便公社の配達車両を見つけ、運転席で白骨化していた配達員を埋葬するとともに、その制服や積まれたままになっていた郵便物を我が物として、以後、現実には存在しない復興合衆国の官吏になりすますことでコミュニティに受け入れられるようになった。

 

この狂言は、はじめは単に衣食を手に入れる手段であったが、やがて長らく外部との通信を遮断されていた人々の、郵便による通信制度の復活に対する切望を振り切れなくなり、図らずも郵便網の制定、延いては合衆国復興という巨大な使命を帯びるようになって極悪非道なサバイバリストとの闘争に巻き込まれていく……

 


という展開を見せる「ポストマン」は、アメリカの作家デイヴィッド・ブリンにより書かれ1985年に出版された、いわゆる終末物SF小説である。

 

20230106-ポストマン

 

ただ、その前に1982年、1984年に"The Postman"、"Cyclops(サイクロプス)"がそれぞれ発表されており、これらを一つにまとめる形で世に出たものらしい。

 

この作家の手になるものとしては、四つの長編(内一つは三部作)と三つの短編からなる「知性化シリーズ」の評価が高く、またよく知られているが、この「ポストマン」もジョン・W・キャンベル記念賞とローカス賞SF小説部門を受賞している。

 

 

 

 


上に紹介した、物語のごく大まかな流れからもお分かりの通り、舞台設定、そこでの主人公の活動いずれにも特別斬新さは見られないものの、平時においてはあまりその有難味を意識しないものに実は極めて大きな存在価値のあることを、高い信頼性を具えた通信手段としての郵便制度を取り上げてこれを骨格に据えながら見事なドラマを展開しているところに、ブリンの堅実な見識と力量を看取できるように思う。

 

似非科学を持ち出しての虚仮威しなどの見当たらないのも、カリフォルニア工科大学卒業後、カリフォルニア大学で応用物理学の修士号、さらに宇宙科学の博士号を取得した作者の素養ゆえのことだろう。

 

ただ、同小説出版の際、その可能性に目をつけたワーナー・ブラザースが映画化の権利を取得しながらそれがなかなか実現しなかったのには、物語の長大さとともに、一般大衆の好んで止まない、この驚き桃の木的要素が欠けていたためかもしれない。

 


1997年、ケビン・コスナーがメガホンを取り、自らの主演・製作により漸くその映画が日の目を見たが、描かれたのは小説の第1部、上に挙げた元々の"The Postman"の部分だけらしく、これではスケールという点だけでも物足りなさを否定できず、実際、同映画は芳しい評価を得ることはできなかったようだ。

 

先ずこれを土台として、続編を――との皮算用がコスナーの胸にあったのか、どうか……

 


片や、某国の出版社に、スーパースターであるコスナーによる映画化に便乗して我々も――とのさもしい思惑のあったのは、上の書影の如実に示すところだろう。

 

こんなことを言うと、そうでもしないと本が売れないのだから仕方ない――との出版関係者の嘆きが聞こえてきそうだが、人々のそのような傾向を助長しているのはそもそも何かを考えるべきだ。

 

いやはや、実に何とも……