ピッサヌロークの宿を7時前にチェックアウトし、本降りの雨の中、駅へ向かった。
驚くことに、延々七時間、350km強の距離を乗って行くその切符は65バーツである。
しかし特急を選ばなかった理由は料金ではなく、一つには適当な時間帯の列車がなかったこと、もう一つは所要時間が一時間ほどしか違わなかったからである。
雨が激しく、優等でない列車の運行に支障が出るのではないかと懸念したが、幸いほぼ定刻に到着し、その後も順調に運行された。

ピッサヌロークを出て二時間ほど経った頃、身体をほぐそうと席を外したところ、通路を挟んだ座席にいた親爺がさッと移動して来て取られてしまった。
これは今般の旅行を通じ別のシチュエーションでも度々経験したが、他にも、四人掛けのボックスシートに外国人女性が一人で座っていると、他に空いている所がいくらでもあるのにそこに入り、しかも対角線上ではなく先客の真正面に腰を据える場面に少なからず遭遇した。
迷惑行為というほどではないとしても、彼女たちの表情から判断すると決して喜んでいないことは間違いない。
ともあれ、車窓は平野の田園風景から山間の幽邃を帯びた景色へ、そしてまた平地へと趣が変わりなかなかよかった。
途中、山間の小駅で乗り込んできた物売りのおばさんから、手持ちの籠に一つだけ入っていた山菜弁当を買って昼食。
飯はもち米を使ったもので、見かけ味とも日本の山菜おこわをによく似ていた。
雨は列車の進行につれ強弱の波を打ちながら降り続き、終着駅チェンマイでは生憎の土砂降りだった。
その光景に接し、念のため持参したレインコートの出番かとザックの一番奥から引っ張り出したが、その間に急速に雨脚が弱まり、様子を見ている内にほとんど止んだため、結局使わなかった。
チェンマイでの宿までは駅から4kmほどあるので、バスかソンテウでへと考えていたのだけれど、駅前にはどちらもその姿は見られず乗り場もわからない。
さらにGrabアプリを起動しても近くに車は見つからず、それならいっそのこと奮起して歩いてしまおうと足を踏み出したが、大通りへ出て少し進んでからふと今一度Grabで検索したところここではヒットしたことから配車を予約した。
因みに料金は宿近くのチェンマイ門まで84バーツ、上の普通列車と比較すると物価の体系というものが分からなくなってしまう。
乗り込んだ車ははじめ城壁に沿う道を辿ったものの、ひどい渋滞に巻き込まれたため旧市街へ入り、曲がりくねった細道を通って内側からチェンマイ門に到着した。
そこからは徒歩で宿へ向かい、特に迷うこともなくたどり着いたのはいいが、ここからが苦難の始まりだった。
まず、ドアを開けようとしたら鍵がかかっていて中へ入れない。
ノックしても応答はなく、中に人のいる気配も感じられない。
そこで予約サイトのメッセージ機能を通じて連絡したところ、宿の人間から対応依頼がいったのだろう、暫く待たされた後に近所の人が現れて中へは入れたが、部屋が割り当てられるにはさらにまた時間を要した。
これで取り敢えず落ち着けると思ったのも束の間、シャワーとトイレからなるバスルームに入ると、洗面台の排水管が外れており、汚水がタイル張りの床で撥ねて足元にびしゃびしゃとかかる。
もう一つのバスルームの洗面台も、パイプの外れはないもののやはり接合部から水が漏れて状況は同じだった。
辟易しながら取り敢えずシャワーは浴びたが、これも主電源が切られていて冷水しか出なかった。
まだこれだけでは済まない。
部屋にエアコンのないことは承知していたが、パブリックスペース(というほど立派なものではない)のエアコンもリモコンが機能せず、それを連絡したら故障中だそうである。
かてて加えて……
この宿に二泊、できないわけではないが、その間不快感を禁じ得ない。
折角の旅をこんなことで傷付けるのもどうかと思い、他にもっといい宿はないかと予約サイトで検索したら手頃な宿が見つかったので、ここでの一泊は捨ててそちらに移ることにした。
これをできるのは安宿ならでは……いや、料金の良いホテルならそもそも上のような目に遭うことはないか。
夕食はチェンマイ門近くの屋台で豚肉とその団子の入った黄色の小麦麺をテイクアウト。
さらにその少し先に出ていたタイ風の寿司にも食指を動かされて翌朝食用に少し購入したものの、夕食にエビと太巻を口にしただけで朝は一晩置いたことによる食中りの不安が否めず捨ててしまった。
もったいなく、また申し訳ないことをしてしまった。
その夜の眠りは意外なことにそれほど悪くなかった。
もっとも、これは単に心身共に疲れていたためだろう。
翌朝は6時前に起床し、外の明るむのを待って雨のそぼ降る中観光へ出、宿から近く、かつ規模の大きな寺院を中心に観て回ったが、その途中に出逢った小さな寺も悪くなかった。




八時すぎに一旦帰宿し、九時過ぎに朝食をとるべくまた外出。
チェンマイはアジアの町としては目覚めが遅いようで、漸く客の一組いる店が目に止まってそこに入ったものの、これは外れだった。
ともあれ朝食を済ませて宿へ戻ると、ここで初めてスタッフとの顔合わせとなった。
その直後に停電が発生、もっともこれは宿の落ち度ではなく、チェンマイの町のかなり広い範囲に渡るものだった。
十一時半、2kmほど離れた新たな宿へ向けて移動を開始。
この途次にも適宜色々と見物するとともに、朝見つけておいた店で牛肉麺を頼み昼食とした。
新しい宿に着いたのは昼過ぎ、やはりチェックインはまだできないとのことで、荷物を預けてまた観光へ出た。
足を向けたのはモン族市場である。
一応チェンマイの名所には数えられているらしいが、当方の行ったときは観光客の姿は皆無だった。
しかししつこい売り込みなどはなく、モン族の人々の手になる多種多様な品――主に刺繍細工――をゆっくりと見られ、その中からなかなかいい土産物を贖うこともできて個人的には非常に好もしかった。

この気分を反芻しながら宿へ戻ってチェックインし、前日排水のかかった衣類のクリーニングを依頼。
追加料金を払ってその日の内に仕上がるという速成コースにしたにもかかわらず、夕方スコールがあって未乾燥のまま受領する羽目となった。
夕方、雨が止んだので、これもチェンマイの一つの名所であるナイトバザールへ出かけてみたが、こちらは観光客目当ての姿勢が露骨に出ており、個人的にはあまり興味を覚えず、すぐに踝を返してしまった。
帰路、夕食は昼間目をつけておいたパッタイ屋で摂ろうと歩を運んでいくと、その少し先に日本人らしい女の子二人が佇んでいるのが目に入り、何か困っているのかと思ったが、つい声をかけそびれてしまった。
店に入って暫くすると、二人はやってきた車に向かって手を上げ、道の反対側へ。
ただGrabで呼んだ車を待っていたようで、走り去った方向と時刻からすると恐らくナイトバザールへ向かったのだろう。
あれは面白くないですよ――というのは要らぬお世話として、モン族市場のことは一言してあげたかった。
その代わりというわけでもないが、店で食事していたイタリア人と台湾人の二人と少し言葉を交わした。