ベートーヴェン(Beethoven)全集、CD100枚組を購入した。
私の聴く音楽のジャンルはジャズとクラシックのみ、さらにそれらの中でも範囲はごく限られており、ジャズはほとんどが1950年代後半の、いわゆるモダンジャズ黄金期のもので、クラシックの方は、基本的にモーツァルト、そこに折に触れてバッハが加わるといった感じである。
広い範囲を渉猟するより、己の嗜好に合ったところを深く掘り下げる性格から、自然このような形になったのだ。
これらの内、ジャズとモーツァルトはほとんど日を空けることなく頻繁にかける一方、バッハについての「折に触れて」というのは、かなり長い間隔をおいてのことで、場合によっては数年間、まったくご無沙汰となることもある。
しかしふと思い立って聴き出した暁には、他のジャンルの楽曲は措いて集中的に聴くのが通例だ。
その、バッハ集中リスニング期ともいうべきものが、約三年ぶりに今般また訪れた。
この際に利用する音源はCD142枚からなる全集で、無論その全てを聴くことはまずないのだけれど、やはり「全集」としてまとまったメディアが手元にあるのは実に心強いものである。
ジャズの音源はそのほとんどが個別のアルバムであるのに対し、モーツァルトに関しては個々に集めたものに加え、この天才の没後二百年を記念して企画され、バブル景気が最後の輝きを放っていた時期に発売された、総額40万円を超える小学館版がずらりと書架に並んでいる。
すなわち、バロックおよび古典派、それぞれの筆頭とも言うべき作曲家の全集が手元にあるわけで、こうなると続くロマン派のものの欠けていることが従来から些か気になっていたのだが、今般バッハ全集を聴くことでこれが一気に燃え出してしまい、変な煩悶に苛まれながら時を過ごすよりは――と、思い切って入手することにしたのである。
では誰がよいか――となると、やはり真っ先に頭に浮かんだのはベートヴェンだ。
無論、これほどの大家ゆえ、その作品はこれまでにも意識的に少なからず聴いては来たものの、正直なところ心底傾倒することはなかった。
したがって、その全集を物色するに当たっても、豪華・完全・特別限定――といった冠の下、高額で販売されているものは自ずと除外され、さらに「交響曲全集」のような特定ジャンルに留まったものではなく、ベートーヴェンの全体像を概観できる、手頃な品が望ましい。
こんな手前勝手な条件を課しても、何しろ楽聖と歌われる作曲家、しかも一昨年(2020)はその生誕250年に当たっていたこともあって、そこでリリースされたものを含め、複数の全集が候補として上がってきた。
色々眺めた結果、CDの枚数は60から100程度ということがわかり、これはなるほどと納得したのだが、問題は価格で、現在新品として流通しているものは、海外で企画された輸入盤ということもあってか、最近の国際情勢を反映してだろう、その変動、正確には上昇が著しく、見ているうちにも毎日のように値上がりして一週間ほどで約1.5倍になってしまった。
しかも、この傾向は今後も続きそうな気配である。
一方、国内に流通している中古品については値が安定しており、中にはかなり安価なものも散見された。
そんな中から今般選んだのは、Brilliant Classicsなるオランダのレーベル(?)が2007年にリリースした(らしい)、冒頭に書いた通りの100枚組で、その決め手となったのは指揮者および演奏家である。
実のところ、クラシック音楽に対して、本来私はあまりこの点に拘りを持ってはいない。
というのは、仮にも斯界において録音を残すような人たちなのだから――との思いがあるからだ。
しかしながら、Brilliant版全集の骨格を成す85枚のCDを吹き込んだ、クルト・マズア、フリードリッヒ・グルダ、アルトゥール・グリュミオー、クララ・ハスキルといった令名名に加え、「歴史的名演」として付された15枚に、次のようなアーティストが名を連ねているのを目にしては、やはり強く惹かれずには済まないというのが人情だろう。
すなわち、フルトヴェングラー、クレンペラー、カラヤン、ギーゼキング、カザルス……
遺憾ながらこの全集は既に絶版となっているようで、入手可能なのは中古品に限られるが、折よく破格の一品が目に付いたので、躊躇なく注文した。
ただ、一つ気になる点として、「ジャケットに問題あり」と但し書きされていながらその画像等の掲載はなかったことから、実際どの程度の瑕疵なのか懸念していたのだが、届いた商品を確認したところ、20枚ほどについて、染みのような汚れの付着していることが判明した。
はじめは血ではないか、もしそうならちょっと嫌だな、と思いながらも、よく見ると外箱の内側、天蓋の折り目にもこれがあり、それらの色合いを鑑みるに、先の所有者のつけたものではなく、どうも製造工程、箱詰めの際にでも間違いがあって、インクの飛沫を受けたと考えるのが妥当らしい。
もしそうなら特に気にすべき汚れではないし、何より肝要なCD本体は、ほとんど使用された形跡のない極めて良好な状態であり、これを一枚当たり百円に満たない値で買うことのできたのは明らかに上の問題のおかげで、瑕疵さまさまといったところだ。
書籍でもそうだが、大部の全集というものは、実用に供するためより、先人たちの残した知的遺産、そのアーカイブ・ライブラリとして贖わられることが多いようで、経年による外観の劣化はあるにせよ、その本質をなす内面は手付かずに近い状態であることが珍しくない。
さて、このように至極うまい買い物ができたのはいいけれど、これからこの全集に含まれるベートーヴェンの楽曲を、ジャズ、モーツァルト、そしてバッハのものと併せてどのように聴いていくか、その塩梅がなかなか大変である。
我ながら、何と贅沢な悩みだろうと思う。