蓼科高原日記

音楽・本・映画・釣り竿・オーディオ/デジタル機器、そしてもちろん自然に囲まれた、ささやかな山暮らしの日常

筑摩現代文学大系10 田山花袋集

特に強く意図したわけではないものの、この全集は第1巻から順に、ほぼ日本近代文学史を辿る形でこれまで読み進めてきた。

 

その第8および9巻は島崎藤村集、これらも書棚に並んではいるのだけれど、収録作品がいずれもかなりの長編で、オーディオに現を抜かしがちな現状では気分的に少々取り組み難いことから、今般、これらを飛ばして第10巻・田山花袋集を繙いた。

 

20220103-筑摩現代文学大系10 田山花袋集

 


今更言うまでもなく、田山花袋島崎藤村と並んで我が国の自然主義文学を唱道した作家であるが、正直なところ、個人的には、この領域にはなかなか足を踏み入れる気にはならない。

 

これは決して食わず嫌いというわけではなく、モーパッサンなど海外作家の手になる作品を含め、これまでいくつか接した経験に基づいてのことだ。

 

人間や人生、社会などの暗い面、醜い点から目を背け、見ないようにして、ひたすらに明るく美しい物語をものすることが文学の使命だとは思わないが、これは取りも直さず、その対極的志向についても同様であろう。

 

その意味で、いわゆる自然主義文学には食指が動かないのだ。

 


これも個人的なことだが、今までに読んだ自然主義に基づく作品において、私がもっとも強く感じたことは、作家の露悪趣味、その不自然さであり、よほどの気紛れでも起こらない限りそんなものに付き合おうとは思わない。

 

加えて、我が国においてはこれと双生児の関係にある私小説、さらにこれらを根として生まれたのであろう、恰も己の悍ましさを競うかの如く、より一層赤裸々に人間(特に自分)の醜い本性・側面を描いて止まない、現代の「ビョーキ小説」(私的造語)など、言うも更なりである。

 


実際、他に読みたい作品が多々――実際、死ぬまでに読み切れないほど――あるのに、惹かれもしない本を敢えて開く必要もないだろう。

 

泉鏡花は、自然主義の隆盛を目の当たりにして、「自然派というのは、弓の作法も妙味も知らぬ野暮天なんじゃありませんか」と感懐を漏らしたそうだが、宜なるかな

 


が、上のように人間(特に自分)の汚物が大好きとしか思えない自然主義作家は、一たび目を「外的」自然へ向ける段となるとポジティブな視座を採ることが決して珍しくないようで、一般的意味での良いものを看取・表現し、読む者をして心地よい気分にしてくれる文章を残している例が少なくない。

 

花袋についても、本巻には紀行文そのものは含まれていないものの、作品中、登場人物の辿る旅路の描写などに、その特質が十分窺えるし、モーパッサンにも味わい深い紀行文集がある。

 

穿った見方をすれば、このような事実から、「自然派」と称されることとなったのではないかとも考えられ……ないにせよ、仮にそう捉えても、強ち不自然でもないように思う。

 


「筑摩現代文学大系10 田山花袋集」収録作品

田舎教師
百夜
重右衛門の最後
蒲団
一兵卒
ある僧の奇蹟
露骨なる描写
インキ壷抄