蓼科高原日記

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ヘディン探検紀行全集7 トランスヒマラヤ(上)

20230127-ヘディン探検紀行全集7 トランスヒマラヤ(上)

 

1905年10月、当時まだ地理的に空白だった、ヒマラヤ山脈の北、チベット高原中央部から南部にかけての地帯を踏破して禁断の聖都ラサへ足を踏み入れるという壮大な意図を胸に、ヘディンは第三回中央アジア探検へと向かった。

 

その出発点となるインドまでは、普通なら船でゆったり――というところだろうが、ヘディンはそこまでの道筋にも数多の探検の種を見出し、イラン砂漠を横断してバルチスタン経由でインドのシムラへ入った。

 

この道程を記録したものが、白水社刊ヘディン探検紀行全集第5, 6巻「陸路インドへ」であり、ヘディンの探検と著述への熱意には驚嘆せざるを得ない。

 


ヘディンは第三回中央アジア探検について模索しながら、当時インド総督の任にあったイギリスのカーズン卿に手紙を送って自らの構想を伝え、「可能な限りの援助をしたい」という卿からの返答に大きく後押しされてその実行に踏み切ったのだが、実際に探検の眼目的地域への出発点として設定されたインドのシムラへ着いてみると、そこからのチベット入りは英国政府によって固く禁じられてしまっていた。

 

これは、チベットをめぐる当時の複雑かつ微妙な国際関係からすれば当然の帰結で、大局的に見れば致し方ないところと言うべきだろうが、ヘディンにとってはそれで納得して諦められるはずもなく、急遽計画を変更し、中国のパスポートを取得した上でカラコルムを越えて東トルキスタンへ行く風を装いながら、途中でルートを変じてチベット高原に潜入することにしたのである。

 

 

 

 


こうして先ずレーへ赴き、上に述べた通りカラコルムを越えてアクサイ・チン湖に至り、そこから東進しながらレイク・ライトン、イェシル・クル、プル・ツォといった湖の観察や測定を行った後、南東からさらに南へと進路をとってルン・ナクまで行き、再び東へ転向してネカ、さらにまた南へ転じてガンツェ・ツォ湖に達し、氷結した湖面上を即席の橇であちこち往来しながら地理的観測を行った。

 

実はこの時、チベットからヘディンの探検を阻止すべく人員が派遣されたのだが、居場所を定めぬヘディンを見つけることができずにその目的を果たせなかったのである。

 


その後、第二回探検の際にヘディンをチベットから追い出したナクツァンの長官ハジェ・ツェリンが、今回もヘディンの前進を食い止めるべく姿を現したが、両者睨み合い状態のしばらく続いた後、突如ツェリンは主張を変え、自ら管轄する領域から退去してラサと並ぶ聖都シガツェ方面へ向かうよう要請、これはヘディンにとって正に願ったり叶ったりと言うべきものだったが、外交戦術上その気持ちは面に出さず、渋々従う形で再び探検へ足を踏み出した。

 

するとさらなる追い風として、世俗界の支配者ダライ・ラマに対して宗教界を統べるタシ・ラマからの援助というこれ以上ない僥倖にも恵まれ、ヘディンはついにシガツェへ足を踏み入れることができた――

 


と、概略を書いてしまえばこの通りなのだが、その道程の困難さは、人為的障害・妨害に加え、5000mを超える標高、マイナス30℃を割り込む寒さ、そしてそこにに荒れ狂う風雪を上げるだけでも十分感得されよう。

 


シガツェからラサまでは東へ250kmほど、それまでに辿ってきた道程に比べればわずかな距離に過ぎないが、その間には見えないながら巨大な政治的障壁が立ち塞がっており、結局この探検行でもヘディンはそこへ向かうことはできず、シガツェを最東点として引き返す羽目となったのである。

 

ヘディン探検紀行全集第7巻「トランスヒマラヤ(上)」にはその復路の冒頭部分までが書かれており、さらに先の紀行に関する文章は、続く第8巻「トランスヒマラヤ(下)」に収録されている。。