蓼科高原日記

音楽・本・映画・釣り竿・オーディオ/デジタル機器、そしてもちろん自然に囲まれた、ささやかな山暮らしの日常

やし酒飲み エイモス・チュツオーラ

「やし酒飲み」は、ナイジェリアの作家エイモス・チュツオーラの処女作にて、「アフリカの神話や民話が持つ奔放なイメージと生命力を見事に開花させた本書が発表されるや、ヨーロッパ文学界で絶賛を浴びた」というキャッチコピーに惹かれ、晶文社版を古書として購入し、期待して読んでみたのだが、個人的には、いやはや上手く釣られてしまった、というのが正直な思いである。

 

20211011-やし酒飲み

 

Wikipediaを参照してみても、学校教育を受けたのがわずか6年間と短いながら、『ヨルバ語の言語構造と文語的慣例を彼独創の英語散文に組み入れた』文体を駆使し、『簡潔、凝縮、不気味かつ魅力的』な、『ヨルバ人の伝承に基づいた、アフリカ的マジックリアリズム』作品を具現した――との、識者の先生方の賞賛が紹介されている。

 

さらに、私の手にした晶文社版に付された解説にも、「言葉の精錬彫琢」だの「宇宙論」だのといった仰々しい表現が並んでいるけれども、私には、そのように優れて深遠なる作品であるところの、「やし酒飲み」の素晴らしさを理解することはできなかった。

 

このような形而上学的宇宙論を超越的に御下賜頂くより、道のりは遠く険しくとも、相対論的宇宙論あるいは量子宇宙論といった正統科学・物理学を理解しようと地道に務める方が、やはり私の性に合っているようである。

 


チュツオーラについては、上に述べたような評価とは逆に、その文体やモチーフに対し厳しい批判的見解もなされているというが、これは当然であろう。

 

「やし酒飲み」についての個人的な印象を述べれば、文体はさておき、「アフリカの複数の神話や民間伝承を、ただ思い付きに従って継ぎ合わせただけ、」との感を禁じ得ない。

 

 

 

 


如何なる民族の神話や伝承においても、その内部に矛盾や齟齬は見られるに違いない。

 

しかしそれらは、歴史的スケールでの時間を通じて、それこそ真に「彫琢練磨」された後に残ったものゆえ、物語を素のまま読み味わえばよいように思う。

 

仮にそのような性質の人類の遺産を、行き当たりばったりに繋ぎ合わせ、支離滅裂さを拡大再生産しても、価値を貶めこそすれ、決して高めることにはなるまい。

 

しかし、物は言いようで、そんなところも、「何事にも束縛されない、自由闊達な精神のなせる業」として高く評価されてしまうようだ。

 


人に、珍奇なものをありがたがる性向と、「発見の功」を得てそれを誇ろうという心のあることは、「知られざる驚嘆すべき才能を新たに発掘!」といった類の謳い文句で、さまざまな人や能力の喧伝されることの如何に多いかという事実が、如実に示していると言えよう。

 

そして、チュツオーラおよびその作品に対する「世界的評価」もまた、それらが相俟って現出した一例と見るのが妥当なところではないかと思う。

 

実際、氏自身は、「やし酒飲み」での成功にも関わらず職業作家として立とうとは考えていなかったというし、恐らく取り巻き連に煽られ、せっつかれて書いたであろう後続作が、二匹目三匹目の泥鰌とはならなかったということが、それを裏付けているのではないだろうか。

 


――とつらつら個人的感想を書いてきたら、何とも否定的なことばかりになっていることに気付いた。

 

私はもちろん、チュツオーラ氏に対して何らの怨恨も持ってはいないので、もし今現在、すでにその名が忘れられかけているとしたら、少々薄情に過ぎるのではないか、と反省して確認したところ、いやいや、「やし酒飲み」は今もって新本として入手可能であり、レビューもこれを賛美するものがほとんどであることを知った。

 

このような状況なら、愚見・鈍観を幾人かの方々のお目汚しとするのも悪くはないだろう――と、ここに公開する次第である。

 

やし酒飲み―岩波文庫

やし酒飲み―晶文社