蓼科高原日記

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筑摩世界文学大系49 ゴーリキー

20220131-筑摩世界文学大系49 ゴーリキー

 


マクシム・ゴーリキーという名が高らかに語られなくなって久しい。

 

1892年、「カフカス」紙に処女作「マカール・チュードラ」が掲載されたのを皮切りに、1898年にはサンクトペテルブルクで短編集「記録と物語」が刊行され、時代の寵児としてアントン・チェーホフレフ・トルストイと並び称された程の名声が――である。

 


ここで視座を変え、この作家の生涯(1868-1936年)を、社会・政治に対する姿勢面に光を当ててざっくりと眺めてみると、1902年に科学アカデミーの名誉会員に選出されたものの、その政治的急進性を理由にニコライ2世によって取り消されたことや、ロシア第一革命の際、出版により築いた資産から巨額の資金援助を行ったという点、さらに十月革命の2週間後には、手紙で「彼らは既に権力の毒に冒されている、」とレーニントロツキーさえ批判している事実から、青壮年時代には高い社会的理想を胸に抱いて社会主義共産主義に傾倒していたことが窺える。

 

が、結核療養のために移住したイタリアのソレントで生活に困窮を来たし、時の絶対権力者スターリンの求めに応じて故国へ戻った後は、その追従者として遍く彼を称え、悪名高い白海・バルト運河建設工事までも礼賛している姿を鑑みるに、何がゴーリキーをしてこのような転向をさせたのか、かつての理想はどこへやら――という感を禁じ得ない。

 


革命後、権力者が自らの名を高めるべく計画した、大規模な公共事業の安価な(というより無料の)労働力として徴発するため、党により「反社会分子」のレッテルを貼られた人々が如何なる苦難を舐めたかは、たとえばソルジェニーツィンの「収容所群島」などに詳しいので、この種の書籍を読んでいると一層強くそう感じる。

 

上の追従が奏功し、一旦は街路、さらには古都にまでその名を冠されたゴーリキーではあるものの、そんな日和見的な利己主義者が、盛んに尻尾を振っていた飼い主に飽きて捨てられた上、後には歴史の審判により厳しく断罪されることとなったのは致し方ないと言えよう。

 

 

 

 


しかしながら、ゴーリキーがその文名を成した作品群は、仮にこのような過誤があったにせよ、その価値が減じられるべきでないだろう。

 

実際、そこに赤裸々かつ活き活きと描かれた人々に対する作者の共感・同情は、到底表面的な取り繕いとは考え難く、やはりゴーリキーの前半生は、大きな社会的理想に基づいて展開されたと思われる。

 


1902年に発表された代表作、戯曲「どん底」は、同年モスクワでロシア演劇の巨匠コンスタンチン・スタニスラフスキーの演出で上演され、その後世界中の演劇界へと広まり、我が国では黒澤明監督により映画化もされていることは広く知られている通りである。

 

私自身、この映画作品は既に何度となく観ており、全体のストーリーはもちろん、各場面各人物の台詞までほとんど覚えてしまっているほどだが、それだけに、実は今般原作を初読して、物語の冒頭部分では些かの違和感を覚えないでもなかった。

 

しかし、読み進むにつれ、映画において舞台を日本へ移すに当たっての脚色の工夫とともに、元となったロシア下層民衆の風俗描写との対比が認識されるようになり、非常に興味深かった。

 


一方、この「どん底」や「母」などに比べるとずっと規模は小さいながら、ゴーリキーの短編小説にも、思わずはッとさせられる作品の少なくないことを、忘れてはなるまい。

 

個人的に、今般読んだ中では、「ストラースチ・モルダースチ」をその筆頭に挙げたいと思う。

 

 

「筑摩世界文学大系49 ゴーリキー」収録作品
どん底
・エゴール・ブルイチョーフとその他の人々
・マカール・チュードラ
・二十六人と一人
・人間の誕生
・ストラースチ・モルダースチ
レフ・トルストイ
・ヴェ・イ・レーニン
・母
ゴーリキーの光(ルイ・アラゴン)