蓼科高原日記

音楽・本・映画・釣り竿・オーディオ/デジタル機器、そしてもちろん自然に囲まれた、ささやかな山暮らしの日常

箱男 安部公房(著)

箱男」は、1973年に新潮社より上梓された安部公房の作品で、今般私は、後に文庫化された版で読んだ。

 

20220225-箱男

 

その前著、「夢の逃亡(1968年)」まではコンスタントに作品を発表してきた安部公房だが、上の刊行年と比較すれば分かる通り、両者の間には実に5年の間隙が横たわっている。

 

この時間幅だけではなく、執筆量の点でも、原稿用紙300枚ほどの完成作に対して、草稿は3000枚以上に上ったというから、「箱男」はこの才人にして相当な苦心を強いられた一作なのであろう。

 


物語は、そのタイトルが示す通り、大きなダンボール箱を頭から被って上半身を覆い、そこに開けた覗き窓から外界を見ながら街を彷徨い生活する「箱男」の手記という形で展開する。

 

ただ、その手記はただ一人の「箱男」によって書かれるわけではなく、さまざまな人物が入れ替わり立ち替わり、さらには元へ戻ったりと目まぐるしい話者の交替があり、さらには冒頭に置かれたネガフィルム、短文の添えられた写真などを含む実験的構成となっており、その流れに上手く乗れないと、読み進むのにかなり難渋することになる。

 

 

 

 


本作執筆のきっかけについては、浮浪者の取り締まり現場において、実際にダンボール箱を上半身に被った浮浪者を目撃したことにあると作者自身が語っているようだが、なるほどそんな光景に出くわせば衝撃は少なくないはずだ。

 

また同時に、一種の自己防衛本能が作動し、人は自然、見て見ぬふりをしがちであり、おそらく作者の心にもその心理が生じたのであろう、この点も作品中に克明に描写されている。

 


本作の主題については、この箱男を主要モチーフとして、「見る・見られる」という観点からの人間関係の把握、登録によって本物と認められる一方、それがないために本質を具えながら偽物とのレッテルを貼られるシステムへの疑念、およびそれら「本物と偽物」との並対立、箱を被ることにより匿名性を獲得すると同時に帰属先が自分自身のみとなった結果生じる心理的事象などの描出にあるようだ。

 

箱男の存在を認めることは、自らも箱男になりたいという欲求に囚われる危険性を孕んでおり、作中の箱男もまたこうしてその地位(?)に転落(あるいは到達)しているわけだが、その心理に共感する性向は、多くの人間に具わっているのだろう。

 

そしてその素因は、上に挙げた匿名性の獲得、社会的柵からの開放、見られることなく見ることのできる特権といった点に求められると同時に、もう一つ、箱男より広いカテゴリーに見られる特質であり、一層単純な事柄ゆえだろうか、作品中には表立っては現れてこないものの、ミニマルな生活、自己完結型の暮らしへの憧憬もあるに違いない。

 

古代ギリシャ犬儒派、東洋における雲水が核なるこれに通ずる生き方を目指したのは固より、確かH.D.ソローの「森の生活(ウォールデン)」中にも、日雇い仕事で必要最低限の金を稼ぎ、棺桶と同等の箱の中で眠ることが理想ではないかと書かれていたように思う。

 

すなわち、古今東西を問わず、人の心にはこうした生き方への希求が、多少の差はあれ燻っているということだ。

 

白状すると、私自身、本作を読んで箱男に対し憧れめいたものは何ら感じなかった――と言えば嘘になる。