「タイタンの妖女」は、「猫のゆりかご」「スローターハウス5」などの作品で知られるアメリカの小説家カート・ヴォネガット・ジュニア(Kurt Vonnegut Jr.、1922年11月11日-2007年4月11日)が1959年に発表した、二作目の長編小説である。
なお、1976年の「スラップスティック」以降の作品では、"Jr."をとったカート・ヴォネガット名義で出版するようになったそうだ。
正直なことを言うと、私はこの「タイタンの妖女」が初めて読んだヴォネガットの作品である(「猫のゆりかご」は書棚に鎮座しているが、未読)。
巻末の解説などによると、この作品にはヴォネガットの特質の多くが含まれているという。
その特質とは、人間のロクでもなさに呆れながらも愛情を失わずに、自らそこに属する同類の仕出かす悲喜劇を、冷笑的であると同時に可笑しみを具えた自在な筆致で描く点にあるようで、そう言われればなるほどと頷かされる。
そこに力点を置いて読めば、本作の面白さも十分に味わえるのだろうが、そのためには些末なことには目を瞑った方が良い。
というのは、個人的に、この物語の発端である、主人公の一人ウィンストン・ナイルス・ラムファードが自家用宇宙船で宇宙へ飛び立った際に陥った「時間等曲率漏斗」なる現象を、物理学的整合性の下に理解しようと要らぬ努力をしたことで、大きく注意を逸らされてしまったのである。
この言葉を見た時、ミンコフスキー時空における光円錐の類を連想し、しかし時間等曲率漏斗などというものが相対論の中にあっただろうか――と思って調べてみても、それらしいものは見当たらなかった。
すなわち、時間等曲率漏斗は、言葉自体もそうだが、その性質もまた作者の創造した単なる虚構で、「そんなものか」で済ますべきものなのだ。
しかも私は、そこへ落ち込んだ結果生じた事象との因果関係についても整合性を付与しようと、無駄に頭を悩ませてしまった。
この時間等曲率漏斗がどんなものかは、英文ではあるがこちらのウェブページに簡潔明瞭に記載されている。
ただし、繰り返しになるが、ここに物理学的整合性を見出そうとしても無理である。
ストーリーは、時間等曲率漏斗に落ち込んだことで過去・現在・未来の出来事を見るに及び、人類がこれから先も闘争を繰り返すことを改めて認識したラムファードが、この連鎖を断ち切るべく「徹底的に無関心な神の教会」を創立するとともに、火星に軍隊を創設して地球へ侵攻させることで世界中の人々を団結させようと計画し、その火星軍への徴募に応じた一人、全米一の大富豪にして享楽の限りを尽くしたマラカイ・コンスタントが、火星から水星へ流浪し、さらに一旦地球へ「選ばれし者」的な存在として戻りながら、ラムファードに過去の罪業を暴露されて土星の衛星タイタンへ放逐される――といった形で展開する。
そしてそれが、はじめにご紹介したヴォネガットの人類に対する愛憎をバックボーンとして、シニカルかつユーモラスな筆致で語られているのだが、確固たる主義主張を整然と展開しているわけではないので、全体として曖昧模糊とした印象を禁じ得ない。
この点もやはり、上の時間等曲率漏斗などと同様、「そんなものか」という態度で読むべきなのだろう。
こう考えると、時間等曲率漏斗に陥って時間的にも空間的にも広範かつ漠然とした存在と化したラムファードの姿が、本作の構成や情趣にまで外延されているとも言えるかもしれない。
なお、タイトルの「タイタンの妖女」は、マラカイを火星軍へ応募させるエサとしてラムファードが見せた三人の美女――実はタイタンの泥炭で作られた単なる彫像――のことで、それ以外に重要な意味は帯びていないように思うが、作者はここにも何かメタファーを籠めているのだろうか。
その三人の肌がそれぞれ金色・白色・褐色ということを鑑みるに、そんな気もしないではないが、まあ、これも深追いしない方が良さそうだ。
もう一つ、本作は「星雲賞」を受けたと紹介されることがあるけれども、これはアメリカのヒューゴー賞と並ぶ「ネビュラ(星雲)賞」ではなく、我が国において行われている星雲賞(海外長編部門)であることを知ったので、老婆心ながら付記しておく。