蓼科高原日記

音楽・本・映画・釣り竿・オーディオ/デジタル機器、そしてもちろん自然に囲まれた、ささやかな山暮らしの日常

死ぬまでに観たい映画1001本[改訂新版] スティーブン・ジェイ・シュナイダー(編)

数年間隔で、映画を観たいという気持ちが心に湧く。

 

比較的時間が自由になる暮らしをしていることもあって、そうなると映画を集中的に見る期間がしばらく続くことになるが、今般またその状況に陥ることとなった。

 

その契機は、ネット上でふと目にした「死ぬまでに観たい映画1001本」という一冊の本である。

 


編者としてスティーブン・ジェイ・シュナイダーの名が冠された同書は、タイトル通り1902年のG.メリエス月世界旅行」から現代に至る、古今東西の映画の中から1001本を選び、この改訂新版においては世界9ヵ国76人の評論家から寄稿された各作品に関する紹介文が収録されている。

 

初版は2004年に出版され、その後何度かの改訂が行われて現在第五版が最新ということだが、新しさには何ら用のない当方は、例によって2015年の改訂新版を古書で入手した。

 

20231228-死ぬまでに観たい映画1001本[改訂新版]

 

ページ数が千に喃々とする大著であることは同書の性格および内容から窺え、またデータとしても認識していたものの、実物を目にし、また手に取って、改めてその分量に驚かされた。

 


さて、「死ぬまでに観たい映画1001本」の選定に当たっては、ジャンル、伝統、監督、俳優などの観点に基づいて行ったと謳っているものの、制作国については半数以上がアメリカで、また監督についてもA.ヒッチコック作品が約20本と他を圧しており、十分顕著な偏りが見られる。

 

もっとも、これはシュナイダーがアメリカ人であること、および上に明示されていない重要な選定基準として商業出版の柵たる営業上の配慮のあったであろうことを思い合わせれば、当然かつ致し方ないのだろう。

 

公開当時のポスターや作品中の場面が画像として豊富に収録されているのもこの線に沿っての結果かもしれないが、こちらは決して悪いものではない――どころか、映画のイメージを喚起するに大いに貢献しているので歓迎だ。

 


個人的なことを言うと、同書に入れられた1001本中、既観の作品は半分ほどである。

 

未観の作品には、様々な理由で観る気にならずに現在に至るもの、また観始めたものの途中で嫌気が差して幕を落としてしまったものも多い。

 

また、一応観了はしたが、時間と金の無駄使いだった――といった印象を得たに過ぎない作品も少なからず含まれている。

 


冒頭に書いた、時間の比較的自由になる状況であるのは事実ながら、これから先を鑑みるに長い時が残されているとも思えず、その中で他にしたいことも沢山ある。

 

これと上の事実から、同書にリストアップされた全作品を観ようというつもりはまったくない。

 

ただ、今般はじめてその存在を知り、食指を動かされた作品も多々あるので、これらを中心にこれからしばらく映画の世界を渉猟することになることは間違いなさそうだ。

 

 

 

 

大いなる眠り(The Big Sleep) レイモンド・チャンドラー(著)

大いなる眠り(The Big Sleep)」は、改めて述べるまでもなく、ダシール・ハメットとともにハード・ボイルド派を代表するアメリカの小説家レイモンド・チャンドラー(Raymond Thornton Chandler)の手になる、長編の処女作である。

 

刊行されたのは1939年、これもハメット作品における主人公サム・スペードと双璧をなす私立探偵フィリップ・マーロウが初めて登場する記念碑でもある。

 

20231215-大いなる眠り(The Big Sleep) レイモンド・チャンドラー(著)

 


チャンドラーの書き上げた長編は7作のみで、こちらも量的には特に瞠目すべきところののない中短編を土台としている。

 

「大いなる眠り」もその例に漏れず、1935年に「ブラック・マスク」誌に発表された「キラー・イン・ザ・レイン」に立脚している。

 


チャンドラー作品の特色、と同時に大きな魅力としては、主人公フィリップ・マーロウの人物描写と斬新な文学的――特に会話――表現が挙げられるが、前者が大胆にして小心、粗野であると同時に繊細といった複雑な様相をもって描写されるのに対し、後者は極めて直観的・直截的な表現でなされるため、これらの対照が読むものの心に絶妙な揺らぎを惹起するためのように思われる。

 

これらが、当時隆盛の路を力強く辿っていた映画に恰好の特質であることは論を俟たず、実際「プレイバック」を除くチャンドラーの6つの長編が映画化されたほか、作家自身、脚本家として斯界においていくつかの仕事を成している。

 

 

 

 


個人的なことを言うと、「大いなる眠り」もテキストを読むに先立ち、ハワード・ホークスハンフリー・ボガードを主役に据えて撮った映画作品で目にしていた。

 

この映画は、本国アメリカでは原作と同じタイトルで公開されたのに対し、邦題は「三つ数えろ」と変えられているが、その理由は明白で、原作のエピローグでさらりと語られる原題の由来が映画では省かれている一方、劇中、「三まで数える」というエピソードが一度ならず二度まで挿入されていることから、原作を読まずにこの映画を観る人々が多いであろう日本においては理解されやすいとの判断に基づいてのことに違いない。

 


その他にも原作と映画との相違点は散見されるが、プロットの大きな流れは共通している。

 

ただ、原作の冒頭、スターンウッド将軍の邸を訪れたマーロウを見て、将軍の次女のカーメンが「背が高いのね」と言うのに対し、ボガードがその役を務めた映画では「背が低いのね」となっているのは面白い。

 

この点に関しては、ボガードはチャンドラーの想定したマーロウのイメージに合わず、映画のキャスティングに少なからぬ不満を抱いていたとのこと。

 

では誰を?というと、チャンドラーはケーリー・グラントの名を挙げているけれど、マーロウの鬱屈した性格や身に帯びた翳りなどを鑑みるに、この役にはボガードの方が相応しいように思う。

 

これは単なる個人的刷り込みではなく、多くの人に共感されるのではないだろうか。

 


「大いなる眠り」については、人物や出来事の間の関係の曖昧さが指摘され、私も映画を初めて観た時にはこれを感じたが、そこから立ち上る靄は今般原作を読んでだいぶ薄れたものの、謎解きを第一とするいわゆる本格推理物としては、その完全な解消が求められるのだろう。

 

しかし、作者が企図した通りにこれをハードボイルドの作品と見るなら、やはり一つの俊峰であることは確かだ。