蓼科高原日記

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おろしや国酔夢譚 井上靖(著)

西暦1783年1月(天明2年12月)、伊勢白子(現在の三重県鈴鹿市)の船頭、大黒屋光太夫は、紀州藩の囲米を江戸へ運ぶべく十六名の乗組員とともに神昌丸で白子の浦から出航したが、駿河沖で暴風に遭い航路を外れ、舵を折られたため操船できないまま約八ヵ月間の漂流の後、アリューシャン(アレウト)列島の一つアムチトカ島へ漂着した。

 

ここで四年の年月を過ごした後、カムチャツカへと海を渡り、さらにそこからオホーツク、ヤクーツクイルクーツクへと移され、その地で知り合った博物学者キリル・ラクスマンの助言と助力により、女帝エカチェリーナ二世に帰国を嘆願すべく冬のタイガを横断してモスクワ、ペテルブルクへ至り、謁見が叶ってついに帰国の許しを賜り、再び日本の土を踏むことができた。

 


――という史実は有名で、こう書いてしまえば何のこともないのだけれど、その辿った道の険しさは、船出時の十七人中、生き残ったのは五人に過ぎず、日本へ帰り着いた者はその内の光太夫と小市、磯吉三人のみで、しかも小市は根室

 

これに、遭難から帰国までに経過した時間が十年に喃々とすることを考え合わせれば、一行の辿った道筋の険しさが一層明確になり、その艱難辛苦に満ちた波乱万丈な物語ゆえにこそ、いくつもの記録が残され、それらに触発された小説などを通じて現在も多くの人々に知られているのである。

 

 

 

 


その記録としては、帰国後の光太夫に対して行われた、11代将軍徳川家斉の前での聞き取りを元に桂川甫周の編纂した「北槎聞略」が筆頭として上げられ、小説には井上靖の「おろしや国酔夢譚」の他、吉村昭の「大黒屋光太夫」がある。

 

20230703-おろしや国酔夢譚 井上靖(著)

 


1966年から1968年にかけて「文藝春秋」に掲載され、その後単行本として刊行された「おろしや国酔夢譚」は、基本的には「北槎聞略」をはじめとする資料に基づいて書かれているが、一行の足跡に関しては、光太夫自身の口から語られた内容が記録として存在する一方、帰国後の光太夫および磯吉の境遇についての伝承は当時あまり知られていなかったため、その部分は作者の類推・想像によるところとなり、二人は半軟禁状態で暮らすことを余儀なくされたように描かれている。

 

その後、実際は伊勢への帰郷が許されたりとある程度の自由を得ていたことが判明し、この事実を示す資料が作者へ提供されたものの、改稿はなされなかったということだ。

 

しかしながら、遭難から帰国までの筋立てと同時に、小説の要素として必然的に入り込んでくる、各登場人物の性格や思いは作者の創造力により生み出されるわけで、「おろしや国酔夢譚」がこのようなセミフィクション作品であることからすればば、上の判断は決して誤りではないように思う。

 

徹頭徹尾帰国を願った光太夫に対し、ロシアで生きてもよいと考えた磯吉、いずれも帰国の願望を抱きながらもロシアに残った庄蔵と新蔵の二人も、その程度には差異のあったことなどが見事に描き分けられている点に、完成度の高さを見るべきだろう。

 


片や吉村昭の「大黒屋光太夫」は今世紀に入って発表された著者晩年の作品で、新たに明らかとなった光太夫に関する事実が反映されているらしい。

 

これも当方の書棚に並んでいるのだが、続けて読むべきか、それとも間を空けようかと少々迷っている。