蓼科高原日記

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集英社 中国の詩人―その詩と生涯 第4巻 庾信(ゆしん)―望郷詩人

集英社版「中国の詩人―その詩と生涯」 第四巻は、「庾信(ゆしん)」に当てられ、サブタイトルとして「望郷詩人」が冠されている。

 

20230723-集英社 中国の詩人―その詩と生涯 第4巻 ユ信(ゆしん)―望郷詩人

 

庾信は南北朝時代の天監12(西暦513)年、この時代にしては珍しく比較的安定した梁に生まれ、15歳で早くも後に文選を編む昭明太子蕭統に仕え、その後も順調に出世の階段を登ると同時に、宮廷詩人として華々しい活動を展開した。

 


この時代の詩は、昭明太子の弟、後の簡文帝蕭綱が、皇太子時代に庾信の父庾肩吾や徐摛(じょち)らとともに確立した、男女間に通ずる情愛や美女の姿態所作などを艶麗に描き出す宮体詩が主流で、当然ながら庾信もその前半生には徐摛の子である陵と競うようにこの流れに沿った作品を多々残している。

 


その庾信が望郷詩人と称されるのは、他でもない、やがて生じた国家の転覆、およびそれによって引き起こされた自らの運命の変動があったからだ。

 

太清2(548年)に起こった侯景の乱により半世紀ほど保たれた武帝の治世が終焉、承聖3(554年)に庾信は元帝の使者として西魏の都である長安へ派遣されたが、当地に滞在している間に元帝は殺され、以後庾信は西魏およびその後を継いだ北周に留まることとなった。

 

庾信はここでも、社会的には同じく南朝出身の王褒とともに優れた文人として重んじられたものの、このことが却って災いして南へ帰ることを許されず、王褒の死に続き、親しく交わっていた趙王宇文招、王宇文逌が北周で実権を掌握した楊堅(後の隋の文帝)により殺されたこともあって、自身が前半生を送った優美な江南を想いながら、結局北の地で没したのである。

 

 

 

 


当然ながら、そこで作られた文章はかつての綺羅脂粉を旨とする宮体詩とは大きく趣を異にすることとなるが、ここにも――と言うべきか、ここにこそ――と見るべきか、庾信の力量は遺憾なく発揮されており、これは、より正統的な名文を集めて文選を編むと同時に自らそれに対する優れた序文をものした昭明太子の信任を受けたことを鑑みれば、何ら不思議ではないだろう。

 

さらに、そのような庾信の詩文に対する評価が、後半生の方に大きく傾いているのも自然の成り行きと考えられそうで、中国の詩人・第四巻にも、晩年の「擬詠懐」「擬連珠」の中から多くがとられている。

 


一方、庾信という名から真っ先に連想されるだろう「哀江南賦」についても他の作品の解説の中などで折に触れて触れられてはいるが、これが主題として採られなかったのは、全体を収載するには長大すぎ、一部の抜粋では統一体としての価値が損なわれるとの当を得た判断に基づくに違いない。

 


これらに対する解説を読んで驚いたのは、詩・賦をはじめとする庾信の文章には、先立つ時代の事績や詩句に基づく表現が多いという事実である。

 

この点に関しては、浅学ながらこれまでぽつぽつと気付くことはあったもの、文章を構成する句に典拠なきはなし――と言われるほどだとは思わなかった。

 

無論、典拠を遍く看破せねば作品を味わうこと能わず――ということはないにしても、知見教養の高まりにつれてより深く味読できることは確かだろう。

 

後世、庾信の作品がさほど広く読まれなくなったのは上のような特質故らしく、これもまた宜なるかなではあるが、新たな気付きを愉しみとしながらゆったりとした気持ちで読むのも決して悪くない。