蓼科高原日記

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世界山岳全集7(朋文堂)―K2登頂、ブロード・ピーク八〇四七メートル

1950年、フランス隊のアンナプルナ登頂により人類が初めて8000m峰の頂きに立ったのに続き、その三年後にはイギリス隊が世界最高峰たるエベレストへの登頂を果たしたことで、地球上でもっとも高いこの領域への門戸が大きく開かれたことはご存じの通りである。

 


朋文堂の全十二巻からなる「世界山岳全集」の第七巻には、ヒマラヤ山脈の北西に位置するカラコルム山脈の二つの8000m峰、世界第二の標高を誇るK2と、その幅広い山頂に由来する名を持つブロード・ピークへそれぞれ挑んだ、イタリア人とオーストリア人の手になる記録が収められている。

 

20230617-世界山岳全集7(朋文堂)―K2登頂、ブロード・ピーク八〇四七メートル

 

これら二つの挑戦はいずれも成功裡に終わったが、両者の基本コンセプトおよびアプローチ法は大きく異なり、鮮明な対照を成している点は、実に興味深く注目に値する。

 


1954年7月31日にK2(8611m)の頂を極めた、アルディート・デジオ率いるイタリア隊は、人員・装備とも極めて大規模な編成で臨んだ。

 

上に述べた通り、同登山はその最たる目的を達成したのだが、アキッレ・コンパニョーニとリノ・ラチェデッリにより敢行された最後の頂上攻撃の際、この二人と、酸素ボンベを荷揚げするため下のキャンプへ下りたヴァルテル・ボナッティとの間に暗いドラマが展開されたことがその後明らかとなった。

 

しかしながら、デジオではなくその当事者たるコンパニョーニとラチェデッリにより記述された「世界山岳全集」第七巻における頂上攻撃の章には、当該事項についての記述はない。

 

個人的なことを言うと、私はこの出来事については事前に知っていたが、それは「K2 初登頂の真実」なる映画によってであった。

 

 

 

 


片や、それから1957年6月9日にブロード・ピーク(8047m)の頂上に達した、マルクス・シュムックを名義上の隊長とするオーストリア隊の方は、シュムックを含めてわずか四人のみという小さな編成で、しかもベースキャンプから上ではポーターを使わず自分たちで荷揚げを行い、さらに酸素ボンベも使用しないという、初の「アルプス様式」でのアプローチにより全員が登頂を目指すという、当時としては異例の目標を掲げてこれを見事に成し遂げたことで知られている。

 

ただ、その達成感と幸福感に包まれながら行われた登山において、メンバーの一人で1953年にも「魔の山」ナンガパルバット(8126m)へ初登頂したヘルマン・ブールが、チョゴリザで雪庇を踏み抜いて落命するという悲劇も伴ってしまった。

 


これらのことを、登山隊を指揮統率した大学教授のデジオは学者らしい客観的な筆で認め、シュムックは登山当事者として熱く活き活きと語っており、ここにも明確な対照を見て取ることができる。

 

地域を同じくして近接した年代に行われた登山紀行を収録しながらこれが生じたのであることを鑑みるに、不思議な感じが一層増すのではなかろうか。

 


もっとも、困難極まる登頂の成功は、事前の綿密な計画と準備、現地においては思うに任せない自然状況と過酷な環境、さらには人的な摩擦・軋轢など様々な困難に対する忍従・奮闘と適切な対処のゆえであった点は共通している。

 

そしてまた、趣は違っても、どちらの文章もそれぞれ独自の魅力を具えていることも。

 


対して上述の映画は、隊員の私生活に関する下らないフィクションが「営業的配慮」により添加されており、陳腐な娯楽作品へと堕してしまっている。