蓼科高原日記

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ヘディン探検紀行全集6 陸路インドヘ(下)

この全集の第5巻「陸路インドヘ(上)」には、1905年10月から翌年2月にかけてヘディンの通過した次の土地の紀行が収められていた。

 

トルコ、アルメニア、イラン(テヘランまで)、カビール砂漠の辺縁および横断路

 

lifeintateshina.hatenablog.com

 

 

そしてこの第6巻「陸路インドヘ(下)」では、1906年2月から同年6月に亘って継続された上の探検旅行の後半経路である、

 

アバサバード~(カビール砂漠の南端を回って)~ラバト・グル~タバス~ナイベンド~ネー~(ハムン湖中央くびれ部分を渡って)~ナスレタバード~ラバト~ヌシュキ

 

におけるヘディンの体験・見聞を記すとともに、かつてマルコ・ポーロそしてアレクサンダー大王がその歩を進めるにどの路を辿ったか、およびペルシアにおける氷河期以後の気候変化と砂漠の分布に関する考察を行っている。

 

20210725-ヘディン探検紀行全集6

 


この探検旅行におけるヘディンの主な目的は、カビール砂漠の境界を地図上に記すことだった。

 

カビール砂漠とは、我々日本人にはあまり馴染みのない名詞だが、一言で言えば塩砂漠、すなわち砂の代わりに塩が広範囲に堆積した地帯のことである。

 

端的に塩漠とせず、砂漠に塩を冠している理由は、恐らくそれが半必然的に砂漠と不可分に結びついて存在するからに違いない。

 


この、砂ではなく塩の広がった荒野は、砂漠以上に生命を寄せ付けない。

 

仮に地下水があったとしても、塩分のため植物は生育できず、無論動物もそこに溜まった水を飲むこともできず、生きられない。

 

しかも、砂漠では大きな恵みである雨も、カビール砂漠にこれが降ると、塩が融解してオートミール状に変化し、人も駱駝も底なし沼のように飲み込んでしまうということである。

 

従って、ここを横断するに当たっては、その時の地面の状態だけではなく、踏破に要する日々の天候まで考慮せねばならないわけで、これを誤ると死亡事故となる。

 


幸いヘディンは、そのような目には遭わなかったものの、全体を通じては、単に自然の脅威だけでなく、政治および社会情勢という人事を含め、多大な艱難辛苦を蒙っている。

 

後者の最たるものは、ロシア革命前夜の政情不安地域、ペスト渦中のナスレタバードを通過したことと言えるだろう。

 

それらが生き生きと描かれていることもあって、一般的紀行とは趣を異にする、スリリングな愉しみを味わうことができる一冊である。