ほぼ文学史の年代を追うような形で作家を取り上げ、その作品を収録する巻を連ねているので当然と言えば当然なのだが、筑摩現代文学大系の第11巻は、一つ前の田山花袋集に続いて自然主義文学の大家、德田秋聲(秋声)の集に当てられている。
これまでにも何度か白状した通り、このジャンルというか潮流というか運動というかに対しては、個人的になかなか食指が動かず、德田秋声についてもその名前は知っていたものの、作品を読んだ記憶はなく、念のため書棚を見直してみたがやはり一つも見当たらなかった。
今般同書を繙くと、前半に長いものが置かれており、読み始めたはいいが延々と嫌気が続く――といったことは避けたかったので、取り敢えず短編から始めたのだけれど……
やはり駄目であった。
従って特に書くようなこともないし、できもせず、また強いてそれをする必要もないのだが、折角なので――とこの作家の経歴を眺めてみて、一つ驚いたことがある。
それはほかでもない、泉鏡花と同じく尾崎紅葉に師事したという事実である。
しかしながら、資質・作風から言えば、そもそも方向からして全く異なるのは明らかで、門下において秋聲が異分子的存在であったことは十分に想像される。
師の紅葉の臨終についての描写が因で、秋聲は鏡花との間に確執を生じたらしいが、それもまたありそうなことである。
そしてこれがさらに、「自然派というのは、弓の作法も妙味も知らぬ野暮天なんじゃありませんか」という言葉を泉鏡花に吐かせる一因となったようにも思う。
と、こんなことを連想できたのを収穫として、今般の「筑摩現代文学大系11 德田秋聲集」は早々に閉じることとした。
収録作の一つ「仮装人物」などは心境小説という新たな境地を見せた作品ということで、読んでみたいとの気持ちもないではないが、同作に対するいくつかの言及を鑑みるに、やはりまたの機会にで――仮にそれがないとしても――よいと思うに至った。
それにしても、あのような作風・作物が「自然主義」なる名で纏め呼ばれるのは何故か、個人的には不思議で仕方がない。
いや、社会の現実を自然科学的に分析描写する、あるいは己の内面の自然な状態を赤裸々に告白することを目指す態度に因ることは重々承知しているのだが、その対象は多様な広がりを見せておらず、特定の性質を具えた極々狭い範囲に限られてしまっているとしか思えないのだ。
彼や我はこうだ、ゆえに人間や社会はこういうものである……
論理的にこのように演繹するのはなかなか難しい(私には無理だ)のだから、限定的・特殊、あるいは個人的・私的――といった枕詞を「自然主義」に冠した方がよいのではなかろうか。
そうすれば少なくとも、術語に対する不自然感だけはなくなる(少なくとも弱まる)。
「筑摩現代文学大系11 德田秋聲集」収録作品
あらくれ
仮装人物
縮図
或売笑婦の話
花が咲く
風呂桶
町の踊り場
チビの魂
のらもの