蓼科高原日記

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スタンフォード物理学再入門 力学 レオナルド・サスキンド、他(著)

五年ほど前、久しぶりに力学を少し見直してみよう、しかしガチガチに基礎からやり直すのはちょっと……と、例によって手前勝手な欲求を覚え、Amazonをつらつら眺めている際に見つけて、これはまさにぴったりではないか、と購入したのが、この「スタンフォード物理学再入門 力学Kindle版である。

 

20220528-力学

 

より安価な原書も同時に目にしたので、本来なら何の躊躇もなくこちらを選ぶはずなのだが、なぜ翻訳版の方を手にしたのだろう――と改めて記憶を辿ると、どうやら単に、大幅な値引きキャンペーンか何かで原書より安くなっていたのが理由のようだ。

 

もちろん、購入直後に一度読んだのだけれど、それを今般再読しようと思い立ったのは、ちょっとした伝手があってその原書が手元に来たためである。

 


改めてご紹介するまでもなく、同書の著者レオナルド・サスキンドは、スタンフォード大学の教授にして、ハドロンについての弦理論や、スティーヴン・ホーキングとのブラックホールの性質に関する論争、いわゆる「ブラックホール戦争」の当事者としても知られる現代理論物理学界の巨頭である。

 

そのサスキンドが、スタンフォード大学における社会人向けの講座を依頼され、受諾して行ったレクチャーから生まれたのが同書で、日本語版にある「スタンフォード物理学再入門」というタイトルは、マスコミの常套手段として世に反乱している人寄せ・釣りではない。

 

もっとも、原書にはスタンフォード云々という文言はなく、これを鑑みるに、現代日本の出版社の汚染度は一歩進んでいると言わざるを得ないようだ。

 

その代わりに原書に付されているのが、"The Theoretical Minimum"という副題で、本来これは、「ファインマン物理学」と併称される名大著「理論物理学教程」を成したロシアの碩学レフ・ランダウが、その門下で学ぼうとする学生が知っておかねばならないこと(=ランダウの頭にあるすべてのこと)との意味で使用した言葉ということだが、同書では遥かに緩やかに、「物理学の次の段階へ進むために知っておくべき最低限のこと」として用いている。

 

 

 

 


さて、現代物理学会の花形とも言えるサスキンドが、選ばれし優秀な学生ではない、既に職業を持った一般社会人のための講座を引き受けた――いや、その前に大学が彼に白羽の矢を立てた――のは、サスキンド自身、恵まれた境遇に生まれ育ったわけではなく、配管工として働いた後に大学へ入り、さらに博士号を取得して学徒の一人となったという経歴を有しているからだろう。

 

いやいや、そもそもサスキンドがいたからこそ、大学当局もそのような講座の開設に踏み切ったのかもしれない。

 

いずれにせよ、物理学に対する強い愛着と深い学識を有していることと併せ、労働のためになかなか学習の時間を取れない状況を過去に身をもって体験したからこそ、同書のような的を射た内容の選択および記述ができたのだと思う。

 


スタンフォード物理学再入門 力学」で扱われているのは、上の画像に含めた目次が示す通り、ニュートン力学および解析力学の基本部分と、追って展開される量子力学で必要となるゲージ変換・ゲージ場を説明するための電磁気学、および付録として入れられた惑星の運動に限られているが、徒に幅広い読者を獲得しようとの思惑から、数式なしの表面的な説明に終始している類の書籍とは異なり、適宜数学を用いながら議論が進められる。

 

もっとも、同書の性格からして、議論の厳密性が多少犠牲にされているのは致し方のないところで、この点に不満や興味があれば別書を参照すればいいだろう。

 

ともあれ、堅苦しくなりがちな古典力学をさほど肩肘張ることなく概観できる本は希有であり、これだけでも同書の価値は大きいというべきだ。

 

また、現代物理学という高峰へ取り付くのに必要な体(知)力作りとして課される、必要不可欠ながら長く苦しい修練に閉口している学生にも、いい刺激を与えてくれる一冊だと思う。

 

 

 

 

ただ、日本語版について言うと、遺憾ながら些か品質に瑕疵があるように思う。

 

具体的に難点を挙げると、誤記の存在を筆頭に、意訳的に語を補うのは良いとして、その選択を誤り却って意味内容が曖昧になっていたり、議論の本筋ではなくお話の部分ながら、どうも脈絡が変だと思ったら、案の定、原書の一段落がすっぽり抜けているという落ちで、その他の疑義についても、原書に当たったらほとんどが即座に解消した。

 

また、「〇〇〇の△△△の×××」の如き表現も、工夫改善の余地があるだろう。

 

さらに、各章(原書ではLecture)の冒頭、幕開けの寸劇的会話が挿入されており、そこにはジョン・スタインベックの短編小説「二十日鼠と人間」の主人公であるジョージとレニーが登場するが、そのレニーが知的障害を持った大男だということが認識されていないようで、少々頓珍漢な訳となっている部分も目に付いた。

 

これも物理の本筋に影響する類のものではないのだけれど、書籍としての完成度を減じていることは否定できまい。

 

最終的な文責は訳者にあるにせよ、何分人間のすることゆえ一人に完璧を期すのは酷というもの、それを補うために編集や校正という役割があるのだろうから、それらに当たる向きにはもう少し注意を払って頂きたいところである。

 

せめて修正表・正誤表の事後公開くらい、できないものだろうか。

 


というわけで、英語に接することにアレルギーがなければ、翻訳版ではなく原書をお勧めするが、これも初期Kindle版は数式表示など色々不備があるようなので、"The Theoretical Minimum"をメインタイトルとした後続(改定)版を選択なさるよう。

 

また、サスキンド教授がなされた講座自体が、動画としてネット上に公開されていることもご紹介しておこう(当方、ネット環境が従量制のため、費用の問題から拝見していないのだが……)。