蓼科高原日記

音楽・本・映画・釣り竿・オーディオ/デジタル機器、そしてもちろん自然に囲まれた、ささやかな山暮らしの日常

筑摩現代文学大系6 国木田独歩・石川啄木集

ともに明治前半に生まれ、命を永らえることなく他界した二人の作品を集めた巻である。

 

20210604-筑摩現代文学大系6

 

 

短文を主とする文学者だけに、二段組の400を越えるページに収録された作品数は少なくなく、以下の通り。

 

[国木田独歩]
忘れえぬ人々
牛肉と馬鈴薯
運命論者
馬上の友
第三者
女難
春の鳥
号外
肱の侮辱
疲労
窮死
欺かざるの記抄
独歩吟抄
予の作物と人気
岡本の手帳
自然を写す文章
我は如何にして小説家となりしか
予が作品と事実
余と自然主義

 

[石川啄木]
一握の砂
悲しき玩具
呼子と口笛
天鵞絨
足跡
葉書
我等の一団と彼
林中書
一握の砂
弓町より
文学と政治
硝子窓
時代閉塞の現状
所謂今度の事
一利己主義者と友人との対話
歌のいろいろ
明治四十四年日記抄

 


両者の内、独歩の収録作、特に小説はほとんど既読だったが、先に読んだ際も特別じっくりと取り組んだわけではないため、内容を忘れてしまっているところが多かった。

 

それでも不思議なもので、読んでいくうちに記憶が蘇り、かつその上、理解・認識が前よりも少し細かな、深いところへまで至ることが多いように思う。

 

 

 

 


一方、啄木について言うと、その作物はほとんど読んだことがない。

 

これは一つに、個人的に元々、短歌に対する嗜好・関心が乏しいことによるのだけれど、それ以上に、次の如き啄木の人物像に起因するところが大きい。

 

すなわち――

 

女遊びをしたいが、稼ぎが悪くてその金がない。

 

しかし思い抑えがたく、あちこちの知己に平身低頭して金を借り、その足しにするという体たらく。

 

単にこれだけなら、特に珍しくもない「駄目な奴」として、見方によっては一片の愛嬌すら感じられると言えるが、彼のエライのは、そのように日を送りながらも、

 

一度でも我に頭を下げさせし
人みな死ねと
いのりてしこと 

 

なる歌を詠む「気概」を具えていた点で、自らの色と欲とを満たしてくれる種を「お前のものは俺のもの」と公言して心置きなく他者から搾取できる社会を夢想し、やがてその実現に至極好都合な道具を見出すに至った。

 

テロリズム、革命、社会主義……

 


このイメージが強いため、そんな作者から生じた言葉は、それが仮に花だとしても、私には汚染土に咲いたものと感じられ、どうしても毒を含んだ臭気が鼻についてしまうのである。

 

これが音楽、あるいは美術の作品なら、鼻をつまむ――というフィルタリングはまだ可能だが、意味の看取を要する文学となると、私にはとても無理だ。

 

世の啄木を好む方々は、その能力をお持ちなのか。

 

それとも、花を生み出した土壌にお気付きでないのだろうか。

 


今般、臭みに耐えながら読み進んではみたものの、「呼子と口笛」でやはり書棚へ戻してしまった。

 

次の如き文句の繰り返しに辟易してのことである。

 

……見よ、われらの眼の輝けるを、またその議論の激しきを。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD!’と叫び出づるものなし。…… 

 

そうお嘆きになる前に、ご自分でお叫びになったらよろしかろう――と思う。

 

 

本は、嫌になったらすぐ閉じられるからよい。